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カリスマ店長の語る【新東京都民ゴルフ場の歴史】

列島に猛威を奮った台風19号はゴルフ場にも甚大な被害をもたらしました。

東京都民に愛されたゴルフ場も、その長い歴史に終止符が打たれようとしています。カリスマ店長がその歴史を語ってくれました。

新東京都民ゴルフ場の営業終了が決定してしまいました。

10月の台風19号で大きな被害を受け、早期の営業再開を目指していましたが、膨大な時間と費用を前に断念しました。

芝の張り替えが必要な箇所もあり、完全に元通りになるには1年以上、数千万円単位の費用を必要とします。

新東京都民ゴルフ場の経営母体は地元の造園業を中心事業とする企業であり、そこまでの資金の工面が不可能だったようです。

昭和30年に開業した、現存する都内では2番目に古いゴルフ場の歴史を、敬意を持って振り返ってみようと思います。

終戦から高度経済成長期に入った昭和30年、都内のゴルフ場はまだ小金井カントリー倶楽部1箇所しかありませんでした。

ゴルフの大衆化を目指した安達建設は、荒川河川敷に36ホールに及ぶ広大なゴルフ場を造成します。

安達建設は明治18年に創業した、造林業の安達幸三郎商店に始まります。

名古屋ゴルフ倶楽部の芝生造成をきっかけにゴルフ場造成に携わり、国内に数多くのゴルフ場を建設しました。

幸三郎氏から事業を引き継いだ次男の貞市氏は、ゴルフ業界の第一人者とも認められる人物で、彼の存在があったからこそゴルフは一部の貴族のものでなく、多くの民衆が楽しめるものになったのです。

その安達貞市と懇意にしていたのが、ゴルフ場設計家の上田治氏です。

井上誠一氏と並び、日本を代表する上田治氏が東京都民ゴルフ場を設計しています。

ゴルフ場建設に適した土地でしか設計しないという立場を取った井上氏と違い、上田氏は依頼を受ければどんな土地であろうと、与えられた条件下で最高のゴルフ場を設計するというポリシーを持った人物でした。

そのため彼の作ったゴルフ場は、一見するとどうしてこんなホール作っちゃったのと感じることもありますが、非常に戦略性に富んだコースでもあります。

開場当初は現在よりもはるかに大きかった東京都民ゴルフ場ですが、そのオリジナルの姿をぜひ見てみたかったものです。

完成までに4年の歳月をかけた東京都民ゴルフ場ですが、建設最中にも昭和33年狩野川台風など、幾度か大雨で冠水しクローズすることがありました。

そうした被害を受けた会員を救済するために、新しく造成されたのが茨城ゴルフ倶楽部です。

上田治氏の最高傑作とも評される36ホールズはこのようにして誕生しました。

そのため、コースが解散した際には、400名ほどの共通会員が存在しました。

36ホールで営業を開始した東京都民ゴルフ場ですが、たびたび用地接収を受け規模を縮小してきました。

2007年には18ホール・パー63から、9ホール・パー31までに縮小されました。

近隣の人口増加により、河川敷を散歩、ジョギング、サイクリングする住民が増えたことで、打球事故が長年の問題となっていました。

ゴルフ場側は苦渋の選択だったようで、2年後には9ホールでの会員制継続は厳しいとして、経営からの撤退を決定しました。

撤退が決まった後も存続の声が大きかったことで、現在の運営企業が経営を引き継ぎました。

2010年3月に東京都民ゴルフ場は、「新東京都民ゴルフ場」として生まれ変わりました。

会員組織を持たないパブリック運営、クラブハウスを設けないカジュアルなスタイル、ショートホール(パー3)中心ながら2つのミドルホール(パー4)と1つのロングホール(パー5)を持つという練習にも適したホール構成で、都民から多くの愛を受けたゴルフ場でした。