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Isao Aokiの名勝負を振り返る前編!1980年全米オープン!
青木功がアメリカで活躍していたころ、日本では青木のことをこう呼んでいました。
世界の青木。
当時、アメリカの多くのゴルフファンがIsao Aokiはアメリカ人と思っていたほど、海外の強豪選手の中に入っても引けを取ることはなく、堂々と存在感を放っていました。
そんな青木の海外での活躍を語る上で絶対に外せない試合を2試合、前編と後編に分けてご紹介いたします。
まずは、「バルタスロールの死闘」と呼ばれた1980年の全米オープンからどうぞ!
Isao Aokiのナイスショットに対する大歓声に鳥肌が止まらない!
当時のジャック・ニクラウスはタイガー・ウッズの全盛期のような人気がありました。
1980年全米オープンでは、青木はニクラウスと4日間同じ組でラウンドしました。
ニクラウスのプレーだけではなく、青木のプレーにも大きな歓声が沸き起こるシーンは何度見ても鳥肌が止まりません!
試合中はお互い集中しており厳しい表情を見せていましたが、気まずい雰囲気などはまったくなく、いい意味での緊張感の中で二人は最高のプレーを魅せてくれました。
擦る(こする)ように横回転をかけてスライスやフックを自由自在に操る独特のパットや、正確なショート・ゲームは、“オリエンタル・マジック(東洋の魔術)”と呼ばれ、そのプレーは世界でも注目を集めていました。
また、USGAのハイライト映像には収録されていませんでしたが、ニクラウスは大会後のスピーチで青木について次のように語っていました。
「青木はプレーだけではなく、態度もとても紳士的で尊敬できる素晴らしいゴルファーだ」
青木選手の最終スコアは当時の全米オープンの記録を塗り替える素晴らしい成績でしたが、ニクラウスがその上をマークしてしまい残念ながら2位という結果となりました。
ニクラウスが最終ホールで先にパットを決めた後に、ギャラリーや取り巻きを制して青木の最後のパットに気を遣った場面がありました。
これは、青木の最後のパットには全米オープンの大会記録が掛かっていたことをニクラウスは知っていたからなのです。
大会新記録を出すとUSGAからボーナスが出ることを知っていたニクラウスは「青木にもフェアな状態でパットをしてほしかった」との気持ちから、青木の最後のフィニッシュパットの環境を、自身のメジャー大会の優勝の喜びを抑えて、自ら整えてくれたのでした。
ウイニングボールを力いっぱい投げる青木の清々しさからは、皇帝ジャック・ニクラウスとの死闘を繰り広げた達成感が強く伝わってきました。
まとめ
以前別のコラムでも書いたことがありますが、筆者が目の当たりにしたニクラウスと青木の関係を象徴するような場面に遭遇したことを思い出しました。
それは、ジャック・ニクラウスが“最後”の全米オープンに出場した時の練習ラウンドでの出来事。
青木はテレビ中継の解説者として招かれており、コースの下見をしていました。
練習ラウンドのニクラウスを見かけた青木が、練習の邪魔にならないようにコースの外でニクラウスの練習ラウンドを笑顔で見ていました。
その時、青木の存在に気付いたニクラウスが小走りで青木に近付き笑顔であいさつをしてきたのです!
まるで恩師に挨拶にくる生徒のように!
あえて声を掛けようとしない青木の気遣いと、旧知の戦友との再会を心から喜ぶニクラウス。
この光景を見て「ニクラウスと青木がお互い尊敬しあえる本当の意味でのライバルなんだなあ……」と感動しました。
Isao Aokiの名勝負を振り返る後編は1983年のハワイアンオープンです!
どうぞ、お見逃しなく!