ゴルフスイング
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テンフィンガーグリップ、試してみますー古書に学ぶ編-
時松隆光プロで脚光を浴びているテンフィンガーグリップ(TFG)。
ふとしたきっかけで筆者は試してみることにしました。
その顛末記です。
歎異抄
『歎異抄』(たんにしょう)は、鎌倉時代中後期に書かれた日本の仏教書です。作者は親鸞に師事した唯円とされています。
同書は、親鸞が直接書いた書籍ではありませんが、多くの著名人が愛読してきたいうことです。
第3章で、『悪人正機』ということが述べられています。
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
善人でさえ救われる、まして悪人はなおさらである、と書かれています。その続きがまだあるのですが、今回は割愛します。
同書では、「善人」は「自力におぼれている人(自力で修めた善によって往生しようとする人)」、「悪人」は「すべての人間の本質」という意味だそうです。
「悪人」(弱者や愚者)にとって、「信じる」という姿勢こそ、生きる術になり、人間のあらゆる営みのなかで最も強いエネルギーを持つということです。
つまり、苦難の人生を生き抜くための手立ては、根源的な力となる「信じること」なのだそうです。
話をゴルフに戻して。
筆者は、あまり他の人の意見にすがらない意地っ張りな性格なのですが、今回、レッスン付きの会員制の室内ゴルフ練習場に入会したのを機会に、インストラクターからの良い意見を取り入れようと考えています。
筆者が「善人」とは言いませんが、自分の力に溺れているゴルフの本質を、インストラクターに見てもらい学ぼうとしています。
自分を愚者としてとらえ、信頼できる人からの意見を素直に聞き入れる所から、活路を見出そうというふうに思っています。
開眼ゴルフ
昭和51年に発行された、摂津茂和氏が著した『開眼ゴルフ』(光文社)という書籍があります。
摂津氏は、作家・ゴルフ史家で、日本ゴルフ協会史料委員長としてゴルフ博物館の設立に貢献され、またゴルフ関連の珍品・奇品・骨董品の著名なコレクターでした(1988年没)。
同書の内容は、過去のゴルフの名プレーヤー等が言ったり書いたりしたことをモチーフにして、摂津氏の意見を述べたものです。
『歎異抄』とは少し違いますが、師匠の教えを噛み砕いて解説してくれていて、現代でも通じるゴルフの真理のエッセンスがつかめます。
グリップについて
この『開眼ゴルフ』を筆者は所有していて、たまにぱらぱらとめくり読みすることがあります。
「グリップは運命を決す」という章があり、その中にTFGについての記載があります。
TFGは、本書では、「ナチュラルグリップ」、「ツー・ハンデッド・グリップ」というふうに書いてあります。
ナチュラルグリップ(つまりTFGです)は、梃子の原理が使えるのでパワーのないゴルファーには利点があるけれども、スイングのコントロールが取りにくい欠点がある、と記されています。
パームグリップとフィンガーグリップのことにも言及しています。
当時の名プレーヤー達も、手のひらと指の境目に沿ってクラブをあてがっていて、どちらかといえば指先の繊細さを活かす握りと言えそうです。
テンフィンガースイング著者の篠塚師匠は、右手のひらが上を向くように握って刀の刃で切るようにボールを打つと書かれていましたが、『開眼ゴルフ』では、「右手のてのひらが上を向くと、インパクトでクラブがシャット・フェースとなってボールが低く飛びフックとなる傾向が強い」と書かれています。
根本的な立ち位置が違うので、どちらが正しいとは言えません。
筆者のTFGの練習では、『開眼ゴルフ』で書かれているように、フルショットではほとんどフック球になってしまいました。
これは、筆者が長年慣れ親しんだグリップからTFGに変えたのだけれども、生半可にグリップだけを変えてみても、スイングがTFGにマッチしていない、馴染みが浅く全体の調和が取れていないということなのかもしれません。
『開眼ゴルフ』のこの章の最後には、「グリップは想像以上の複雑な要素と微妙な得失があり、(中略)スイングのクセなどに最も適合するグリップをみずから発見することが大切である。ゴルファーの運命を決するグリップならば、それだけの苦心をする価値がある」と書かれています。
旅の終わりはいつ……
『歎異抄』は有名で今でも愛読者は多いようですが、『開眼ゴルフ』はもうほとんどの人が眼にすることはないでしょう。
ただ、『開眼ゴルフ』という本には、今でも通用するゴルフのエッセンスがたくさん散りばめられているのは確かです。
聡明な作者が記した書籍が、いつの日か誰かのギフトになることは間違いなくあるはずです。
筆者の名著探しと極握の旅は続きます。