ライフスタイル
オリオット
バブルの接待ゴルフから一人ゴルフ、クラブライフまで~31年間のゴルフライフ
1987年7月24日、33歳の時にコースデビューを果たした。
無我夢中でラウンドしたスコアは140。
今年(2018年7月24日)は、31回目のコースデビュー記念日にあたる。
ゴルフ歴31年とは言っても、仕事中心、ゴルフは趣味程度、週末ゴルファーだったので、ゴルフに費やした時間は実質7~8年程度、まだまだ駆け出しのアマチュアゴルファーに過ぎない。
自分史と言えるほどではないが、これまで歩んできた31年間のゴルフライフを振り返ってみた。
バブルが崩壊し、シンガポール駐在へ
会社の先輩に誘われてゴルフを始めた時期は、経済安定成長(1973年~1991年)の後期。
土地・株・ゴルフ会員権は実体経済とは乖離して値上がりし、交際費は使い放題、まさに経済バブルの時期だった。
接待ゴルフは、お客様と一日中お付き合いができるうえ、親しくなればゴルフをしながらビジネスの話ができると、もてはやされた。
そのバブルが崩壊し、1992年にいきなりシンガポール駐在を言い渡された。
心配する妻と幼い子供3人を連れて家族で赴任した。
シンガポールは駐在する日本人も多く、日本人学校が充実していたので、子供の教育に心配はいらなかった。
シンガポールを中心として東南アジア各国を出張する日々が5年間続く。
そんな中、セントーサゴルフクラブで週末に仲間と楽しむゴルフが唯一の息抜きだった。
ゴルフの腕前は90前後、ゴルフが楽しくてしかたなかった。
シンガポールから帰国後、日本はリストラ時代へ
日本に帰国が決まり、1997年12月31日、シンガポール発の夜行便に搭乗、元旦の明け方、無事、成田空港に到着した。
帰国して間もなく、“ITバブル”がはじけ、大企業さえも倒産する時代、年功序列と終身雇用の崩壊、大リストラ時代に突入した。
仕事は続けられたが、帰国後の生活と仕事のリハビリ、3人の子供の教育など、経済的にも苦しく、妻にも苦労を掛けた。
ゴルフをする余裕さえなかった。
4~5年ゴルフができない時期があったが、経済的にも乗り越えられる目途が立ってきて、ゴルフも少しずつできるようになった。
接待ゴルフはすでに死語のようになり、プライベートで細々とゴルフを楽しむ程度。
ゴルフ仲間もほとんどいなくなり、一人でも組み合わせでプレーできるゴルフ場を探し回った。
今では一人ゴルフの専用申込サイトがあるくらい普及してきたが、当時はほとんどのゴルフ場で断られた。
長崎へ単身赴任し、本格的にゴルフを再開したが、還暦を前に挫折
2006年、長崎県に転勤することになり、単身赴任することにした。
仕事の合間に長崎県のゴルフ場巡りをする一方、ゴルフ場の会員権を購入、ゴルフ仲間もできて、毎週のようにゴルフを楽しむことができた。
ゴルフクラブのクラブハンディでシングル入りするには、マナーを含めた厳しい審査があった。
その審査を無事通過しシングル入りした時は、ゴルフ仲間やクラブ関係者を招待して、慣例となっていた“シングル祝い”をした。
その後、ハンディは6まで縮めることができた。
そんな中、還暦が近づいてきた頃に会社の定期健康診断でドクターストップがかかった。
入院は寸前のところで回避することができたが、大学病院に通院することになった。
単身生活で外食主体の食習慣が災いし、体が悲鳴を上げていると感じた。
それを機に、自炊生活を始めることにした。
もともと細身の体なのに体重が5キロほど減った。
栄養生命学を独学で学び、自分の体質に合った栄養成分表を作って、基礎代謝・運動量・総摂取カロリーのバランスを考え、“医食同源”の体調管理に気を配るようになった。
そのお陰もあって、厄年でもある還暦を無事乗り越えることができた。
会社では、“赤いちゃんちゃんこ”を着せられ、還暦を祝ってもらった。
会社の定年退職を機に、第二の人生を歩み始めた
会社の定年退職を機に、大学で産学連携コーディネーターとして働くチャンスを与えてもらった。
今後の第二の人生をどう過ごしていくのか、考える期間でもあった。
その中で、これからは科学技術とスポーツが融合し、科学技術の力でスポーツをもっともっと楽しくすることができると考えるようになった。
そこで、これまで培ってきた科学技術の知識・スキル・経験を活かし、“科学技術とスポーツをつなぐ”ことを第二の人生のモットーにすることにした。
Gridgeのライターとして記事投稿させていただいているのも、その一環としてとらえている。
このような機会を与えていただいたGridgeの皆様には大変感謝している。
振り返ってみれば波乱万丈の人生、様々な出会いあり、山あり、川あり、谷あり、OBあり、これからもそんな人生を歩んでいくのだろうと思う。
人生に彩りを添えてくれたゴルフ、そしてどんな時でも暖かく見守ってくれた最愛の妻と子供たちに感謝しつつ、これからの経験を少しでもゴルフをはじめスポーツ振興に役立てられれば、と考えている。